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オタク文学は自閉的日本人のために

オタク文学は自閉的日本人のために

どうも皆さんこんにちは。純白です。

今回は自閉症とオタク文学についての関係性について書きたいと思います。

*現在、自閉症はASD(自閉症スペクトラム障害)の一部とされるが、便宜上「自閉症」を利用する

非自閉症者のことを自閉症の研究者は定型発達と呼びます。

「定型」とは、型について一定の規則性があることを言います。

社会学者のアンソニー・ギデンズは社会に構造があると唱えました。

社会には見えざる構造が存在しており、その構造がさらに外部の構造を作り、

それが無限に再帰していくことで社会が構成されているというのです。

自分は、この見えざる社会構造が「定型社会」であり、

それに最適化した人種が「定型発達」と呼ばれているのだと考えています。

もし貴方が「社会について絵を描く」という課題が与えられた場合、

どのような絵を描くでしょうか。

多くの人は、この課題に戸惑うことでしょう。

なぜなら、社会はあまりにも当たり前だからです。

このような課題が与えられでもしない限り、社会の可視化など意識することもないでしょう。

意識はせずとも、確実に存在することで安心が与えられる空気のような存在なのです。

子供は「ごっこ遊び」を通じて社会を学びます。

他者(大人)の身振りを真似ることで、他者の内面的経験のトレースを試みるのです。

自閉症の児童は、ごっこ遊びが苦手と言われています。

それは自分という個人を社会の一部として位置付けるのが苦手であるということを意味します。

職業や役職は、ある共同体の内部でしか意味を持たない「虚構」です。

虚構としての役割と、現実としての実存を別々に持ちながら、各シーンで使い分けるのが、定型発達が定型たる所以なのです。

ライトノベルと近代文学

これは確かに事実だが、細かい点で別の相違もある

ライトノベルと近代文学には大きな違いがあります。

それはライトノベルは「キャラ」に特化した登場人物で物語が構成されているのに対し、

近代文学は、登場人物の人間性を容易に読み取ることの出来ないつくりになっています。

これは近代文学というものが、人間心理のリアリティを書き出すことに重きを置いているからだと考えられます。

言わずもがなですが、人間性の把握には労力がかかります。

初対面の人と沢山出会わなければいけないシチュエーションでは、かなり社交的な人でもない限り疲労を感じるでしょう。

これを簡略化する手法が、アニメやライトノベルの真骨頂である「キャラ化」です。

キャラ化の創作手法には色々ありますが、典型的なもので言うと「一人称の配分」があります。

現実社会では、成人男性が取れる一人称の選択肢は多くありません。

「俺」、「私」、「僕」、「自分」など、精々この4種類くらいでしょうか。

これらの一人称を登場人物に配分することで、誰が喋っているかを即座に読者に把握させます。

地の文や前後関係を注意深く読まなくても、

会話を追うだけで全体の流れを理解できる画期的な手法です。

勿論、この4種類では登場人物を網羅するのは難しいので、

ライトノベルでは特殊な一人称が使われがちです。

創作界隈を通して、各々の一人称と登場人物のキャラクター性を紐付けているので、

後続の作家もキャラ付けに悩むことがありません。

*「私(ワタクシ)」を使うのは育ちが良いお嬢様、「俺様」を使うのは素行の悪い不良など

これは「定型社会」の構造を可視化することにより

非定型発達者(自閉傾向の強い人)にも物語を分かるようにする作り、

創作活動においてのバリアフリーと言えるかもしれません。

自閉症とオタク文学の親和性

きわめて単純化された強い個性を持つキャラクターが登場するオタク文学ですが、

ある意味ではこのような登場人物たちは自閉的性質を持っているといえます。

例えば、涼宮ハルヒの憂鬱という作品に登場する涼宮ハルヒは自閉症的特性を持っています。

彼女は、世界をすべて自分の思い通りに再構築できる力を持った超人です。

涼宮ハルヒの精神が不安定になると「閉鎖空間」という特殊な無人空間が発生し、

この空間が無限に膨張し続け、最終的には現実空間と入れ替わってしまいます。

それを阻止するために、ハルヒの作った部活であるSOS団に宇宙人や超能力者などが集まって、

彼女を監視しながら平凡な学園生活をおくるというのがストーリーの軸になっています。

まずこの閉鎖空間ですが、読んで字のごとく、

涼宮ハルヒが引きこもることを目的とした自閉的空間です。

彼女は、幼い頃に父親に連れていかれた野球場で、

自分以外にも数えきれないほどの人間がいることを知り、

自分は何も特別な人間ではなく数いる大衆の一人であることに絶望します。

恐らくこの絶望がきっかけとなって前述の能力を手に入れたのでしょう。

自閉症の子供は、自分が機嫌が悪いときに周囲の機嫌がよいと、

そのことに強い怒りを感じるということがあります。

これは自分の内面と世界とが強く関連しているはずという想定が根底にあるのです。

本来、自閉症児のこのような現実認識は理解されることなく水泡に帰しますが、

涼宮ハルヒの憂鬱の世界では、この怒りを収束させなければ世界が滅んでしまいます。

このため、涼宮ハルヒを理解する登場人物は、彼女の怒りを無視することが出来ず、

涼宮ハルヒに平穏な学園生活を送ってもらえるように右往左往することになるのです。

世界と個人の行動が直結している作品を日本のオタク批評界では「セカイ系」と呼びます。

このセカイ系は、自閉的な発達傾向を持つ人間でも、関わる人間を最小限度に保ったままで、

世界という「社会」との関わりを持てる、ある意味で都合の良い物語なのです。

日本という社会で、セカイ系作品群が異常なほどの盛り上がりを見せたことは、

日本人という国民性と自閉傾向に親和性があると言ったら言い過ぎでしょうが、

少なくとも自分は「何らかの根底的関係」はあると考えています。

まとめ

いかがだったでしょうか。

日本は同調圧力が強く、確固たる定型社会が確立しているように思えます。

しかし、サブカルチャーを詳しく見ていくと、定型社会というコンクリートの切れ間から、

非定型という多様性の花が咲いていることも事実なのです。

こんなことは社会不適合者のポジショントークだと思われるかもしれませんが、

新しい日本文学には、生きづらさの表現が溢れているのも事実です。

今回は以上になります。それでは次回の記事でお会いしましょう。さようなら。

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