
こんにちは。純白です。
最近、自分の現代批評の先生であるF・W・ニーチェ先生がインスタグラマーに物申している。
万年躁うつ病の精神異常者ですが大学で先生やってます。
自分の先生であるニーチェ先生は、「ぴよぴーよ速報」系のあんちょこチャンネルに出てくる、
所謂なんちゃってニーチェではありません。正真正銘本人です。
ホリのモノマネと木村拓哉本人くらいの差がある。
「孤独を乗り越えられない若者の神経症的態度はインスタグラムに原因がある」って主張が、
最近のニーチェ先生のマイブームなのは知ってますでしょうか。
今回は、その主張について深堀りしていきたいと思います。
もくじ
ニーチェ先生のスタンス
ニーチェの著作を未読の人はニーチェ哲学にどういうイメージを持っているでしょうか。
- 神は死んだ(多分無神論者)
- 発狂して死んだ
- 暗い感じ(ニヒリズム)
多分上記のようなことがパッと思いつくでしょう。
ニーチェ先生は、形而上学的(目に見えないものに関して考える系の学問)な精神論を批判して、
「道徳とかお前の心の中にあるものなんだから内なる声みたいなものあるわけねー」って
先輩哲学者であるカントに反旗を翻しました。
カントが精神世界の話ばっかしてるのに対して、
ニーチェは肉体的なことを中心として論理が展開します。
わが兄弟よ。君が「精神」と呼んでいる君の小さい理性は、君の肉体の道具である。大いなる理性の小さな道具であり、玩具なのだ。「われ」と君は言い、この言葉を誇りにしている。だが、もっとも大きなものとは、君の肉体であり、大いなる理性である。
ツァラトゥストラかく語りき(河出文庫)
これはニーチェが自著「ツァラトゥストラかく語りき」の中で、
主人公のツァラトゥストラ(ゾロアスター教の教祖)にさせた演説の一部です。
近代哲学の祖であるデカルトは、思考→実存(肉体とか物体)の順番で世界を説明しましたが、
ニーチェは、実存→理性という風な順番で世界を考えていました。
これを実存主義といいます。
実存主義については、以前カミュのペストの動画で説明したのでよかったら観てください。
万人に共通する道徳や正義はないって主張なので、孤独の中から答えを見出すしかありません。
ニーチェ先生は馴れ合いも大嫌い。
そんなに停滞していたいなら死ねば助かるぞ。
ってな感じで赤木しげるみたいなこと言いだします。
この停滞し続ける人間たちをニーチェ先生は「終わりの人」と命名しました。
逆に「終わりの人」であることを乗り越えた人たちのことを「超人」と名付けました。
インスタは「終わりの人」量産機
現代日本人が理解できる言語で話してください。
優れた演出家のことを大衆は「偉人」と呼ぶ。
ニーチェ先生は、インスタグラムこそ「終わりの人」を量産するシステムだというのです。
インスタグラマーは、演出家であると同時に役者でもある。
市場において役者は、その良心を持たない。(判断基準という言葉に置き換えても読める)
彼/彼女の至上命題は「いかに自分の信奉者を増やすか」ということだ。
君はこの賛否のあいだで板挟みになりたいか。
良心を持たぬ市場のいいね稼ぎマシンとして、精神をすり減らして生きる道化になりさがる。
この構造を、オタク評論家の岡田斗司夫は評価経済と称して好意的に喧伝していた。
しかし、可処分時間を可処分時間で奪い合う「復讐戦」には際限がなく、
一時の休みもない。(インスタは24時間365日年中無休)
投資家ロバート・キヨサキは労働で日銭を稼いでいる状態を「ラットレース」と呼んでいます。
貨幣経済が終わりを告げても、今度は評価経済でラットレースが始まるのです。
貨幣経済では、金がなければ餓死しますが、評価経済では評価がなければ心が壊死します。
精神の弱い系インフルエンサーが、自殺したり心を病んだりしてるのも、
ニーチェ先生の言う「終わりの人」の末路なのかもしれません。
まとめ
いかがだったでしょうか。
ニーチェ先生の提言は色んなところで顕在化し、
芸能人の自殺ニュースが目立つようになってきました。
評価経済に曝されて常に強くいることはできないし、
ニーチェ先生も逃げるように言っています。
でもSNSってインフラ化していて逃げ出せないんですよね。
我々が貨幣経済から抜けれないのと同様に、若い子は評価経済から逃げ出せない。
「終わりの人」を乗り越えるのは難しすぎて、ニーチェ先生自信が発狂してしまったので、
解決方法とかは著書に、特に書いてないんですよね。
また次回の記事でお会いしましょう。さようなら。